【社会】幸福になれなくても哲学的な考え方をし続けなければいけない理由

Into Breast Pockets

果たして私がどの程度哲学していたのかは定かでない。大学生の頃は、社会学のゼミを専攻していて、授業が終わってから友達とサイゼのドリンクバーをすすりながら5時間くらい話し込んでいたのは良い思い出だ。だから、”社会について語っていた”とは思う。ただそのディスカッションがどれだけ哲学的であったか、というのはまた別として。

そういう立ち位置から、哲学のことを考えていました。学校を離れても、社会は未だに私にとって注目と、懺悔と、生き残りを賭けた航海をし続けるフィールドだから、多分死ぬまでその興味が枯れることはないんでしょう。

先日、Twitterでこんなことを書いたら思いの外と反響があって。

哲学者ひどいとか聞くと、やっぱり哲学に対する認識の差がなと 思う。哲学は鋭い。哲学は冷たい。哲学はなにも救わない、やっている自分自身も含めて。くらいの突き放しがないとやってられなくない?あの業界。哲学と宗 教は全く別のものだよ。あなたを守りもや救いも生かしもしないよ、と思いつつ(原文ママ typoお恥ずかしい。)

こんな偉そうなことを言ってみたものの、私はハイデガーをまともに読んでいません。あるいはベルクソンでつまづきました(『時間と自由』に入門して、30 ページで逃げた)。そんな人間だから、本当に哲学をやっている人から見たら、私の言っていることは哲学以前の問題に放り出されると思う。それでも私は、自分でやっていることが『哲学的』だと信じてはいます。哲学をしているわけではないけれど、社会について語るとき、ある局面で哲学的な考え方を持ち出して語っている、と。

では、哲学的な考え方って、どんなこと?と聞かれたとき、

・嘘をつかずに考え、表現する

ことじゃないかと思っています。私のこの考えは、大学での学びと、特に書籍を挙げるなら中島義道さんに負うところが大きくて、たとえば『「哲学実技」のすすめ』のなかで彼は

哲学とは考えることだ。しかも、「からだ」で考えることだ。(P19)
哲学とは自分の体感や知的緻密さ、さらには呼吸や血の巡り、つまりひとことで言えば「からだ」にぴったりした言葉で語ること(P60)

と言っています。この「からだ」で考えるとは、体験主義に固執することなく(P27)自分が普段意識していない思考の動きも含めて、自分のからだ全てに気を配りながら考えるということだ、と私は理解しています。

たとえば私は、今地球の裏で餓死した子供の命の責任が自分にあり、あるいは私が収入を得ることで今すぐお金が必要なひとから収入機会を奪っているのであり、私のエゴにより沖縄に基地を押しつけ続けていることを知っていますが、私はこれを当たり前に受け入れるまで1年かかりました。

生まれてこの方普通学校の純粋培養で、「てつがく!」なんてものに触れたこともなかった学生が、いきなり授業で、「お前ら全員生きてるだけで差別者なんだぜ」と言われて、素直に「そうですよねー、日頃から他人押しのけてエゴイスティックに生きてますからねー」とは、心底当たり前には語れなかったのです。

・なんで、自分が会ったことも見たこともない人に対して、常に責任が発生するのか、と混乱し
・私自身に抑圧する気がなくても、常に誰かを抑圧してしまう構造に嫌悪感を抱き、
・私は差別者という位置から逃れられないのか、必死にその道を探して「ない」と知り

そうやって、学んで理解するまでの悩んで考えた時間が、私を良く鍛えてくれました。

一年かけて、『人間存在はエゴイスチックなものだということをトコトン認めよということ』(P39) をやったわけです。それでやってみて分かったのですが、この『トコトン認める』というのは、自分と一対一で話しているだけでは絶対に無理だ!と。なぜなら、自分が普段管理できるのは、心の動きの一部だけで、それ以外は外部からの働きかけなしにはまず微動だにしないだろうと思ったからです。

不幸が人を大きく変える、と言いますが、あれは、不幸な出来事が、強制的に、普段自分で管理している心の領域の外側をも揺らすから。そのような、からだ全体を揺らす文字通りの『激震』なしに、普段の自分の考えから手足を出す、というのは難しいものです。

ちなみに、ここまで読んで察した方も多いかと思いますが、こんな学びをしていると幸せになれません。これに語弊があるのであれば、自分一人が幸福になるための近道は哲学的な考え方の先にはない、と言い換えてもいい。こと社会の問題を哲学的に考えるとき、幸福と同じ程度に不幸について語ります。普段見聞きせずに生きていけるような暗い面にも光を当て、自分の心の動きも含めて批判的に考えて、考えて、考える。(自分が差別者であり、エゴイストであり、究極的には私がただ普通に生きることで他人を殺していることに考えを及ぼすことすら、その心の動きの中に組み入れる)

こんなことをしていて、気持ちが良いわけがないですね。あるいは、考えた結果を表現したとして、哲学的な考え方のプロトコルを持たない人に、この気持ちがどう伝わるかと考えると、すっかり足がすくんでしまう。「私が今日息をすると誰かを殺している」というのは、私にとって至極当然でも、こういう考え方に触れない人からしてみたら、明らかに反社会的な発想でしょう。

奥さん旦那さんと子供とで仲良く暮らしているだけの一般的な核家族に対して「あなたたちの存在が母子家庭を抑圧している」と言うとき、それが正しくても言葉には出来ない。社会学を真面目にかじっていたころ私が好き勝手考えて悩んでと居られたのは、そこが大学だったからです。先生と友達に話して伝わったからです。そうでなければ、一人で哲学的なものの考え方をするなんて、すっかり気持ちが参ってしまう。

それでも、こんなに大変な思いをしても哲学的な考え方を捨ててはいけない、と未だに固く信じているのは、それが真に社会を良くしていくための遠回りだけれど確実な道だからです。

合成の誤謬という言葉があります。本来は経済学の用語ですが、これを社会のあらゆる問題に当てはめることが出来ると思う。個人個人が最も自分にとって幸福な生き方を目指すとき、その道の一本一本が正しかったとしても、全体から見ると決して効率的ではない。

お金を沢山得るために、他人をだまし蹴落とし、寄付をせず、フェアトレードのカカオを使ったチョコレートを選ばない、と選択することは、その人の幸せ(お金を沢山得る)に貢献するけれど、全体(ここでは宇宙を含めた一切という意味での総体)からしてみると決してベストな選択とは言えない。

自分にとってだけではなくて、本当に全てに対する影響を、少しでも良い内容で及ぼしたいと考えるなら哲学的な考え方が必要です。ただし、繰り返しますが、その考え方は必ずしも貴方を幸福にしません。時には自分が想像するより自身がずっと矮小な存在だと思わなければならず、あるいは私が他者に対して気づかぬうちにひどい仕打ちをしているかを自覚させられるし、あるいはその考え自体が、日本では他人に話せない反社会的な性質を帯びうる。というか、自然とそうなってしまうでしょう。私も未だに考えながら、口に出せていないことがたくさん。

哲学は鋭い。哲学は冷たい。哲学はなにも救わない、やっている自分自身も含めて。

それでも私が哲学的な考え方を捨てないのは、そうすることで私と、私に近い属性のひとが、明日また少しだけ身軽に生きていけると確信しているからです。

目次

まとめ

・『「哲学実技」のすすめ』は、自分が哲学向きかどうかのいい試金石になる気がする、おすすめ入門書。

・哲学的な考え方は、ミクロ視点では何も救わない。でも、広い領域の問題から、多くの人を少しだけ救っている。そういうものだと思います

・哲学的な考え方は、自己批判から離れられないゆえにあなたを何からをも救わないので、もっと気分を軽くしたいなら、やはり宗教をおすすめします。
「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・ (角川oneテーマ21 (C-1))