GWうううううううう!!!
皆様楽しく過ごされてますでしょうか。
新井は、24才のGW、2泊3日の山ごもりを通じて、いかにネット環境が素晴らしいモノか思い知りました。いい・・経験・・・だったなあ・・・?
さて、今日こそきっと大して読まれるまい。相変わらず物騒なはなしです。私、Twitter上でも、物騒な発言は人が少なそうなころに言ってるなあ。
・R-styleさんに書いてもらった!
Busideaの人気エントリー二つを読んで あるいは決して使ってはいけない言葉
R-styleのくらしたさんに書いてもらった!おいらも中々長文を書く人間だけど、まだまだくらしたさんのクオリティには遠く及ばないんだぜ。嬉しいな。えへへ。
↑の文章を読んでいて、ふむふむーだったり、むむーだったり、思うところがあったので書いてみます。
※以下の文章は、くらしたさんに私が押しつけたいことではなくて、私がこう思っている、ということね※
あなたは、「人生ってなんでしょう?」と、誰か他の人に聞かれたら、どう答えるかしら。
私は「人生は、旅だ」と思っています。それも、今みたいに電車や飛行機を使う旅じゃない、大航海時代みたいな、船旅のイメージ。
私は、私のリソースの許す限り、あらゆる場所に出向いて見聞きすることができる、そういう貴重で面白い機会をもらったと思っています。初めての場所に行くことは、見聞きするあらゆるものが新しくて、不慣れで不便なものです。生活習慣も全く違うし、ときには理不尽な扱いを受けることもあるし、攻撃されることもある。それでもときには輝く宝石のような素敵なモノを見つけたり、美しい景色を見たりして、基本的には毎日が楽しい。そういうものが、人生だと思っています。
なので、私にとっての敵は、この旅を心地よく過ごせなくするなにか、です。具体的には、「私を現在より良くない状況に追い立てる人、モノ、あるいは社会構造」のことです。世の中に、これらがないということはあり得ない。なぜなら、もしこれからがなかったなら、世の中には一切の差別問題が存在しないはずだから。
そして、心がけとしても、私は「敵」と言うことばを手放さない。なぜなら、「敵がいない」ことにしてしまったら、私の旅を困難にするあらゆる事象に対して、「辛い、苦しい、やめてほしい」と伝えるための武器を、”怒る方法”のひとつを、手放すことになるから。ただでさえ少ない手持ちを放り出して左の頬を差し出すような、ガンジーやキング牧師のようなやり方を真似できるほど私には余裕がないし、真似したくないなと思っている。I have a dreamのくだりは、昔youtubeで何度も聞いてああ素敵だなって思っていたけど、素敵なのと真似したいことはやっぱり違うんだよね。方向性としてはマルコムXなんです、私。戦闘もやむなし派。(ただし言葉とテキストでね)
確かに、『「敵」というレッテルは強力だ』という、くらしたさんの言は違いない。相手を攻撃するための武器なんだから、闇雲にふるったらもちろん危ない。敵をきちんと見極めなきゃね、ってはなしをこちらで書いたと思う。
一方、『その言葉を使えば対話する努力から解放されます。』という言葉については、なるほど、そういう考え方もあるのか、と思ったなあ。確かに、敵という言葉を、『敵と言う言葉は戦争という極限状態においてのみ存在しうる言葉』と、くらしたさん流に定義するならそうなるかもしれない。(ここは、先に書いた私の定義とだいぶ差異があるね。)
ただ、私にとって、『敵』ということばは、何かから私を解放してくれるようなポジティブな用途には使えない。古い言い回しだけど、ペンで戦うとき(今なら、キーボードで戦うとき?)の一番最初、長距離走の開始を待つ地点の白線のようなものだと思う。今まで見えなかった敵を告発すれば、激しい抵抗にあうのは確実だ。戦いの火ぶたを切って落として、自分が信じるところを貫くための重々しい第一歩、そのスタートラインが、敵という言葉だと思う。「あなたは私を苦しめている敵だ。私は、あなたが私を苦しめないように要求する。あなたが、私の敵でなくなってほしいと願っている。」これを齟齬なく伝えるために。
ああ、あと、戦争で思いついたんだけれど、戦場に存在する『敵』どうしは、驚くほどフェアに戦っていることを思いやっても良いかもしれないな。みんなひとつの命を持ち寄り、それをなくす、というルールのもとに集まっているわけだから。(もちろん、損害の多寡は、装備から何から所属する国家によって変わるけれども、腕を撃たれたら怪我をする、頭を撃たれたら死ぬ、というルールは、他のどんなスポーツよりもフェアだよね。審判いらないもん)
だけど、社会問題はそうじゃない。フェアな環境の元で戦える状況なんて滅多にない。そのくせ審判も少ないわ、金はかかるわ、結果が出るまでに時間がかかるわ、誤審するわで一般庶民がアテにできるようなもんじゃない。さらに言えば、そもそも社会問題の原因なんて、人ひとりの責に帰せないことばかりなのだ。社会構造そのものを告発しなければいけないことだってある。そのとき敵になるひとたちは誰だ?誰かを踏み台にして成り立っていた社会構造を維持することで甘い汁を吸っていたひとたちみんなだ。誰かひとりが悪い訳じゃない、ただ、その社会構造を見て見ぬ振りしていただけ、なんてひとも大勢いる。それでも、その『見て見ぬ振り』こそが、旧態を維持する大切な力になることだってあるのだ。それを切り崩そうというのだから、私から見た相手の立場を、言葉で定義しなくちゃ言えない物事だってある、と私は思う。むしろ、そういう心づもりでモノを書いてる。別に毒舌のつもりじゃないんだけどね。
このブログや、Twitterを読んでくれてる人にはもう伝わっているかもしれないけれど、私は、ずっと『弱者が陥る特有の環境に居る人々』のことから目をそらさずに見て、考えたい思っている。共感したい、とも思うけど、それは苦労知らずの娘が言うたわごとで、傲慢が過ぎるというものかもね。
ただ単に、たとえば経済的な弱者とか、若者とか、そういう区切りだけじゃなくて、「這い上がりたいけど這い上がれない」、社会構造のポケットにすっぽりはまってしまったひとたちのそばにいたい。努力しているのに、恵まれている人たちと比較すると同じ努力量でも報われない層が確実にある。社会のひずみ、そこを見つめて、それを言葉にしたいと思っている。今私がしているのは、そういう作業。
※以下メモ※
・敵同士であることと、仲良しなことは両立できる、というはなし
を・・・書きたいが、今の私には荷が重いなあ・・・。いつか、数ヶ月後、数年後、私の思考がもっと熟達したころに書きたい。いや、トライすべきなんだろうな、不器用な考えかたでも。逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ
・あなたが言っている『敵』って、要するに被差別者の視点から見た差別者のことなんじゃないの?
と、もし思った人がいたら、あなたは勘が良すぎるか社会学の徒。一言で言えばこういうこと。
・「自分が我慢することが、なぜ他の人を不幸にするか」。
分かっているんだけれど、文章にするにはまだ思索が足りないかも。ひどくシンプルなはなしのはずなのに、それをまとめようと思うと、また「こいつの文章長い」と思われるような程度の文章量になりそうで。もう少し考えるか、本を当たるかなあ。
・戦略的本質主義のはなししたいな。
私が理解しているなりで、きちんと理屈が通るように、なおかつはじめてこの概念に触れるひとにも理解してもらえるように、書いてみたい。でもこれを書いたら、きっと特定のクラスタからはぼっこぼこなんだろうな・・・。
(知らない人からは拒否反応が、知りすぎている人からはダメ出しが予想されすぎる)
まあ覚悟して書く。批判されてこその物書きよ。
・一人称のこと。
まあ、私中身女なんですけれど、一人称はわたしだったり僕だったり俺だったりします。友達はもうすっかり慣れてるみたいだけど、時々、あって間もない人の前で僕というと割と驚かれることも。そんなに変かなあ?