理屈抜きに高らかに、”YAH YAH YAH -” とサビが続くチャゲアスは、私にとっても懐かしいグループのひとつです。最近彼らの話をとんと聞かなくなったので、彼らはいつ、どこへ消えたんだろうと調べてみたら、つい最近みたいでした。2009年に無期限活動停止だってさ。へぇ。
彼らのことを思いだしたのは、前回の記事にコメントしてくれた人が居たから。彼/彼女は『YAH YAH YAH』を「ロスジェネ世代ソングだった」と表現していて、ああ確かになあと思いました。あの曲のメロディを名無しの私たちも知っているけれど、1993年に発売されたそれは小学生の私たちのものじゃなかったなと。私たちのお姉さんお兄さんを強く鼓舞し、鬱憤をかき消して立ち向かうパワーをくれるような 強いメッセージ性を持った曲だからこそ支持されたんじゃないかと思います。何せ、「今からそいつを これからそいつを 殴りにゆこうか」ですからねー。ストレートすぎる。(※1) 当時は無邪気に聞いていたけれど、改めてみてみたら怖くてかっこいい歌詞だと気づいたのはいつのことだったろう。
もしあの曲が、1993ではなく2010年にリリースされていたら、どうだろう、ウケたんでしょうかね。ウケたかもしれないなあ、こんな時代だからこそ。
※1(同じ年に、大黒摩季のヤンデレ歌『あなただけ見つめてる』(スラダンED)がリリースされてて、偶然じゃないんだろうなと思って結構びびった。昔は歌も、暴力的で平気だったんだー、それでちゃんと人気がでて売れたんだ、って思う。ちなみに、その5年前にザ・ブルーハーツの『TRAIN-TRAIN:見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる』10年前、1983前後に尾崎豊。『15の夜:盗んだバイクで走り出す』とか流行ってた。個人的に、そのときに流行った歌は世相の反映が多分に含まれてると思ってる。)2010最近の注目株は・・・神聖かまってちゃんとか?私には彼らの良さが未だに分からないけれど、ああいう風に歌う彼らが受け入れられる素地があるという点で、今の時代は面白い時期だなあと思う。
閑話休題。
私は、前回の文章の中で『それに、若者から無理して搾り取るんではなくて、タンスの奥から引っ張り出してきたほうが、よほど金額としては大きくなると思いますよ。本当に、ええ。』と書きました。これについて、ちょっと補足させてください。私は、この一文を”使われずに眠っているお金を引っ張り出したほうが元々細い若者の消費を高揚させるよりお金が集まるんじゃないか”という意図で書いただけで、特別高齢者だけから取り上げろ、という認識で書いていませんでした。言葉足らずですみません。(結果的に、高齢者から集まる金額は多くなるだろうけどね)
何せ箪笥貯金、試算で27兆円あるらしいからね、国内に。眠っているお金をみんなでいっせーのせで集めたらえらいことになりそうじゃない。なんかどどんっと色々解決、万々歳。とか妄想してみた。達成手段は考えついていない。ごめんなさい。
んで、コメントの中で時折見かけたのが「高齢者がお金を手放さないので、若者にお金が回ってこないんだ」というはなし。うん、確かによくそんな話を耳にしますね。日本の個人金融資産約1,500兆円の多くを高齢者が持っている。高齢者がそれを貯金したまま動かさずにいると、経済の流れがどんどん悪くなってこれから日本経済を担うべき世代にお金が行き渡らず、労働や雇用の機会損失を生み出し経済を弱体化させるのだ、とかなんとか。
・・・ごめんなさいね、私経済とか金融はあんまり得意でないから、もしかしたら認識違いがあるかもしれませんが、大体合っていたら見逃してください。もしくはだれかデータとか説明とか、補足してくれたら嬉しい。
こんな話を聞くと、つい「俺たちがいつまで経っても経済的に豊かになれないのは高齢者のせいだ!」と口走りたくなってしまう気持ち、わかります。「今からそいつを これからそいつを」とロスジェネ賛歌を歌いながら、思わずご老体に、本当の拳を使わずとも、言葉で打ちかかりdisりたくなる苛立ちを、私も感じないわけではない。
でも、ちょっとまって。私たちは、今まで散々『(浅はかな)若者』『(非日本人的な)非正規雇用 ※2』『(不運な/結果として不健全な)ロスジェネ』『(勉強時間が少ないので頭が悪い”に違いない”)ゆとり』などなど、散々ラベリングされバカにされて、その痛みを知っているいるはずじゃないですか?ひとくちに『若者』と括られたって、その中にいろんな属性を持った人たちがいて、本当に適当に生きているひとから、命の火を燃えさからせるように一日一日を精一杯生きているひとまでいることも知っている。『最近の若い奴らは(以下略)』でまとめられて、属性のグラデーションなんかなかったことにされる腹立たしさが私たちにも分かるはずじゃあないですか。だというのに、お年寄りのことを私たちが語るとき、『高齢者』とひとくくりにするの?
※2 ”事実、日本はいったん「正規の人生」から脱落し、戦線離脱した人がリスタート=脱落復帰しにくい社会構造になっている。国家・会社・家族の三位一体が「正規」の「日本人」という共同体道徳を強固にはびこらせる(だから「非正規雇用」という呼び方には「非日本人」のふくみがある)。”(杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』 P29)
若者と括られがちな私たちは、ぎゅうぎゅうと透明な箱の中に押し込められて、硝子の天井にゴツンと頭をぶつけては小さくまとまり、壁の外から見える景色に手を伸ばしては遮られ届かないその遠さに涙します。硝子の壁から透けて見えるのは酒や車だけじゃなくて、生存レベルで言えばあしたの衣食住。もうすこし高級な欲としては安心して子供を育てていける環境、家族の団らんだとか、そういうもの。個人によって見えるものは違うと思うけれど、それらについて、もしあなたが今不当な被害を被っていると感じるなら、私はちゃんと怒っていいと思う。せめて、別の世代から心配されない程度には、もう少し意見を表明していいし、そうする努力が必要だと感じています。だからこうやって、私ももにょもにょ書いてるわけだしね。
でも、意見を表明するとき、その言葉を誰の臓腑に叩きつけたいか、それを見誤ったらだめだ。特に、敵によく似た見た目をしたひとびと、「本来は被害者なのに、加害者のイメージをとばっちりでなすりつけられてしまっている」人たちがいるという疑いの目を、常に光らせているのでなければ。
たとえば、もし私が間違って、「俺たちがいつまで経っても経済的に豊かになれないのは高齢者のせいだ!」と言い切ってしまったら、私はこんなひとたちまで――むしろこういう人にこそ、私が支払うなけなしの税金を使ってほしいと願う人まで――いわれのない批判をしてしまうことになるんです。(ぜひリンク先の記事にも目を通してほしいな。)
■たまゆら火災:発生から1年 高齢貧困層の現実変わらず 10人が死亡した群馬県渋川市の老人施設「静養ホームたまゆら」の火災から、19日で丸1年。東京都内の生活保護受給者が多数巻き込まれた惨事は、増加を続ける行き場のない高齢貧困層の現実を突き付けた。施設を運営するNPO法人「彩経会」理事長の高桑五郎被告(85)は業務上過失致死罪で起訴されたが、元入所者の中には「寝る場所があるだけでありがたかった」と振り返る人もいる。
■グラフは本人の月収についての結果です。一〇万円未満の人が四割を占めました。とくに女性では過半数にもなりました。また、「収入は国民年金だけ」という人が、公的年金受給者全体の二割。介護保険料の段階は、回答者の四割が、第1から第3段階までの住民税非課税(本人・世帯)でした。無年金者が八〇五人を数えたことも、見過ごせません。
■低所得の高齢者を狙う貧困ビジネス 「無届け老人ホーム」の闇
何十年も生きてきて、人生のゴールが私たちよりずっと身近にあるところで、こんな目に遭っているひとがいる。想像してみました。想像したら悲しくて、あと「いやだ」と思いました。「人生の最後のほうがこんな過ごしかたって、やっぱりあんまりだ」と。誰かにこんな終わりかたを強いるのも、私自身の終わりかたがこんなのも、ぜったい最悪だ。
それだけでなく、私が一歩間違って事前調査をせずに発言してしまったら、酷い目に遭っている人たちを含めて批判することになってしまう。「高齢者が悪い」という言説を私が再生産することで、「(若者からみたときの)高齢者」=「悪」というイメージを強化してしまい、苦境に立たされているご老人がたを間接的にさらに苦しめることになってしまいます。そんなの、本当に悲しいし、自分が嫌いになる。散々「これだから最近の若者は(ry」で、いわれのない批判を受けることを ただ素朴に「痛いな」と感じてきて「こんな思い、なるべく他の人は味わうことがなければいいな」と思ってもいるのに。
それを、私が考えなしなせいで誰かに押しつけたくない、と思いました。「私は怒っているぞ!」という前に、「私は誰に向かってそれを言えばいいのか」を、まず知らなければいけないと。「世代?」「階層?」「性別?」「所属?」多分、私が言葉を伝えたい人は、その文脈の時々で異なるし、様々な属性の組み合わせで成り立つひどく不安定な人物像を想定するしかないのだろうけれど。
少なくとも、私の敵は「高齢者」というシンプルな属性で割り切れないと、コメントを見て考えてググって分かったから、自戒&メモのために書きました。どこかしらで意見を表明してくれる皆さんのおかげで、今日も少しだけ、賢くなっています。ミスを犯す確率を減らせています。本当にありがとう。
繰り返すけれど、抑圧されている状況で怒ること、誰かに不快感を表明することは、生きるための戦いとして必要なことだと私は思う。むしろ、横暴を働く相手に黙りこくって従い、自分をすり減らして心が(場合によっては体さえも)死んでいくことは、間接的に周りも不幸にしている。(これはいつかまた別の記事で書きますね)だからそうならないように、自分の信じるところの主張はするべきだ、と私は愚直に言い続けます。少なくとも思考停止だけは本当に害悪だ。本当に。私が世界で一番嫌いなことは『思考する事を放棄させる圧力』だ。親の敵のように憎んでる、これは絶対。誰にも、考える権利、想像力を働かせる権利がある。これを、本を焼いたり、繰り返し言い聞かせることですり込んで制限したり、考える暇がないほど忙殺(そう、まさに忙殺だ。時間で心を殺しているんだ)させることで操作する。反吐が出るわ。
だから、私は苦しんで考え抜いた結果がたとえ世間に迎合するような考えじゃなかったとしても、きちんと伝えていくべきだと思う。(もちろんそれは、現状から見ると”反社会”な主張になるから、生きる事への難しさは高まるかもしれない。それでも、心が死んでしまうくらいなら、それでも。)主張して、戦っていくべきだと思う。私は言葉での戦いを否定しないし、もっともっと、みんなの話を聞きたいって思う。みんなもっと喋ったり、書いたり、歌ったり、踊ったりしたらいいよ。そうやって想像力を働かせて、人に自分の意見を話せることがひとつの自由の形だと思うからね。
ただ、言葉で誰かを殴るとき、少しだけ振り返って考えてみてくれると嬉しいな、と思った。その言葉で臓腑をえぐりたい相手は、本当にそいつらなんだろうか。似た服を着た見間違いではないだろうか。本当にその人こそが理解しあえない敵だろうか。相手はどういう事情で、私を苦しめたんだろうか。
さて、今からそいつを これからそいつを 殴りにいこうか。その前に
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