最近、学校教育の話を読みまして、ちょっと思うところを。
来年から小学校の授業は278時間増える!? “脱ゆとり”に9割の親が賛成 – ガジェット通信
元ネタ詳細はこのあたりから。
んで、さらにこの記事の元ネタ探してきました。
こちらのリリースを読むと、調査対象の母集団が『全国の小学校低学年の子供を持つ男女600名を対象』とだけしか書いていなくて、年齢性別等の詳細な属性が不明なため、正直あんまりアテにできない風はありますが、まあとりあえず参考として。
『学校に行くことが学ぶことじゃないんよ!』と叫んだおじさん
当時セーラー服を着ていた私は、中高が繋がっていたおかげで何の疑問も、学力的なハードルもなくブレザーの高校生になりました。
けれども、これは特別不思議なことじゃなく、国民の9割以上が高校へ行く日本では、『学校に行く』ことそのものについて、疑問に感じることはあまりないんじゃないでしょうか。
特に、今は子どもに中等教育まで受けさせることが『義務』ですから、人に教えてもらって学ぶということについて、今更疑問視するまでもない、と感じるかもしれません。
しかしながら、これにノーと言った人さんがいました。哲学者のイヴァン・イリッチさんです。
イリッチさんは、『教育をサービスとして受けることは、それが当たり前になったとき、学習に対する自律性を失う』として、「学校化」と呼び批判しました。
学校に行くこと=学ぶこと
進学すること=学ぶこと
と勘違いされるようになると、学歴についての劣等感を持ったり、あるいは学校外でどれだけ貴重な経験をしても、それを軽視してしまう、というような弊害が起こると言いました。
念のために言っておくと、イリッチさんは学校そのものを批判したのではなくて、「学校に行っているから自分は勉強しているので安心だ」「医者にかかっているから自分は健康に気を遣ってて安心だ」というような、思考停止状態がよくない、と言っています。学校に行っていたって寝ていたら勉強したことにはならないし、医者にかかってもその医者が間違った薬を渡したら健康にはなりません。『誰かに任せれば安心』という発想が、学校教育から生まれてしまうのが良くないのです。
現に、イリッチさんは『優れた教育制度はこういうものです』という事例の中で 「誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなるときにおいてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること」と言っています。
学習する環境は必要、しかしそれは自主的につかみ取るもので、一方的に与えられると、大きな弊害がある、というのがイリッチさんの主張でした。
======
んで、今回の記事&リリースを読んで。
たとえば、リリース内の
『「暇そうにしているし、自分が子供の頃やったのに今の子供がやらないことがあるので、最低限のことは省かずにやったほうがいい。週休2日で、土曜日に授業参観やちょっとした行事があると、半日でも次の月曜日が1日振り替え休日になるので、余裕があり過ぎだと思う。」(岐阜県 男性 51歳)』
という声。
これなど、モロに学校化の弊害だなと。
『自分が子供の頃やったのに今の子供がやらないことがある』 = 自分と同じ教育サービスを受けていなければ、学習しているとは認められない
『余裕があり過ぎだと思う』 = 自分と同じ教育サービスの量を受けなければ、学習が足りない
というわけです。
親が『余裕がある』と感じるなら、その分を埋め合わせを子供に提供しようと考えるのが自律的です。あるいは、その『余裕』のなかで見いだした知性を『学習した』と認めて、一緒に伸ばしていくのが、学校サービスへの寄っかかりをやめた教育ではないでしょうか。
自分と『一緒』の知識を修めてほしいと願い、苦言を呈してしまうのは、まさに学校化の弊害でしょう。
ほかにも、
『脱ゆとり”が、子供の就職力や社会適応力に対してもポジティブな効果をもたらすという声も88.5%と圧倒的多数』
だそうですが、『授業数が増える=就職力や社会適応力が上がる』という認識こそ、(俺、私達が通った道である)学校に任せておけばOKという無責任な信頼の裏返し感が否めません。
「自分と一緒じゃなきゃやだー!」という駄々コネは、どうも「近頃の若いもんは」に通じるものを感じてしまうんですよねぇ。
ここまで、諸々批判を重ねてきましたが、もちろん学校教育のメリットもありますよ。教育の均質化は子供の学力に親の経済力が反映されにくくなるので、経済的に厳しい家の子は助かるでしょう。
そういう前提を踏まえつつ、それでもなお批判の余地がありまくりな調査内容だったなあと感じたので取り上げました。
ほかにも思うところがあるんだけれども、とりあえず一旦これで。