自分なりに考えたことメモ的な。
※ここで言う”絵”は、一枚絵のイラストなんかをイメージしています。
私は、絵も文章も大好きです。
ただ、かくのは文章で、絵はもっぱら見せて頂くばかりです。
美術の5段階評価で3前後を彷徨う中学生(当時)にも、意外とお友達に絵の上手な子が多く、中学生の頃からその才がうらやましいと思わぬ時はありませんでした。
今もそうです。私は、何かをイラストはおろか図表で表すことすらあまり得意ではなくて、もっぱら考え事の整理は箇条書き。深く考えるときにKJ法も用いますが、あれも紙を切って単語を書けばいいだけでしょう。イメージ図にするのが大の苦手な人間にはぴったりの整理法なのです。
そんな見る専門(いわゆるROM相当ですね)の私は、今日も好きなイラスト描きさんのページを巡回しておりました。
その時ふと目に留まったのが、『イラスト描きの心得』的な内容を、コミカルに漫画にしてまとめたページ。
・百聞は一クロッキーにしかず (クロッキー=イラスト描きさんがよく使う、クロッキー帳のこと)
・とにかく数をこなそう
など、これは文章上達にも通じるな、と感じる格言がある一方、
・描く対象を徹底的に観察しよう
・資料を用意しよう
・描く対象(たとえば人体)の構造を知ろう
など、文章を書く場合よりもより強調されている事柄や、あるいは文章を書く際にはそこまで重要視されない事柄も多いなあと気づきました。
■考えを書き写すことと、三次元を二次元に翻訳すること
いったいこの違いはどこからくるんだろうと考えながら、その他の、『イラスト上達のためにすべきこと』みたいな記事を読み漁ってみますと、
・絵を描くことは3次元から2次元に翻訳すること
という表現をみつけました。なるほど、基本的に目の前にあるものでありながら、私が自分の手すら満足に描けないのは、3次元を2次元に落とす作法を知らないからなのですね。
もちろん、浮世離れした幻想的なイラスト、というのも世の中にたくさんあるのですが、それらを構成する各パーツ(たとえば水のしぶきだとか、太陽の日の光だとか)は、現実に実在するもので、それらをたくみに組み合わせ、かつ2次元に翻訳した上で紙に書き付ける、というのが絵であるようです。
こうした特性を考えて、文章を書く事と比較してみますと。絵が”翻訳”であるのに対して、
・文章を書くことは、頭の中の考えを書き写すこと
であると言えそうです。
■文章のいいところ
たとえば、浮世離れした描写をする労力で比較すると、文章は頭の中で考えたとおりの風景を紙に書き写せばいい。
それに対し、絵を描く際は、その風景の構造を理解し、それを2次元に翻訳して、それらを紙の上で表現する必要があります。
具体的な例をひとつ。
『水の上を人間が歩く』という描写をしたい場合、文章で表現するには『水の上を人間が歩いていた』と書けば、最低限の描写は完了するのに対し、絵の場合は、水と足の形を事前に把握し、最低でも水の上に足で立っている様子を描かねばなりません。
また、特定の地名を示しやすいのが文章です。
たとえば、富士山を望む河口湖の描写をしたい場合、文字であれば『ここは河口湖だ』といえばいいところを、絵だとえらい苦労があります。富士五湖というくらいですから、富士山の周りには外にも湖があるなか『ここはほかでもない河口湖だ』と示さねばなりません。たぶんテクニックとしては、絵の中に標識を入れたり(文字に頼ることになりますね)、あるいは、河口湖の風景を知っている人には伝わるように、ある程度遠景の描写になるのではないでしょうか。水の波紋などを描写していたら、そもそもここは湖なのか池なのかすら示すことができないわけですから。
■絵のいいところ
表現するに当たって、アウトプットのスピードは絵より文字のほうが早い。
しかし、見返すとき、ぱっと見で把握が早いのは絵のほうです。
特に、物事の一瞬を切り取るような情報量は、絵のほうが断然多いです。
もし、『水の上を人間が歩く』様子を詳細に文章で伝えようとすると、
「頭にネクタイを結びつけ、ヨレヨレのYシャツを着て背中にのしわの寄ったままの黒スーツを着た中年サラリーマンが、残り少ない髪を散らしながら、富士山に向かって湖の上をすべるように歩いていった」
と、一目では見切れないほどのテキスト量で描写しなければならないところを、絵であれば上記の様子を一瞬で伝えることができます。(写真でも同様ですね)
ですから、絵と文字を比べると、表現を目にしてからその様子を自分でイメージする速度が、絵のほうが圧倒的に早い。文章は、文字を読み、その様子を自分の中で想像して、やっと表現を理解できます。
表現の再現性についても、絵のほうが高いです。絵は、見たそのままのイメージが正解ですが、文字の場合、個々人の想像力に依存する以上、誰もが同じものを見ることはできません。
さっきの例で言えば、『頭にタイを巻きつけている以上、酔っ払ってハイテンションなおじさんなのかなあ』と想像しても、『富士山に向かうってことは、自殺志願のどんよりしたおじさんなのかも』と想像しても、どちらも間違いじゃないことになります。
■絵と比較して考える文章上達法
絵と文章は、上記のような違いから、上達法も重なる部分とそうじゃない部分があるのかなあと思いました。
【絵と文章 両方で通用する上達法】
・とにかく、かく
量を積めということですね。これは絵や文章に限らず、あらゆる修行で有効な考え方。
・資料を集める
絵はもちろんのこと、文章でも、ディテールにこだわると文章が豊かになります。
たとえば、森 博嗣さんのスカイ・クロラ は飛行気乗りの物語ですが、フラップ・スポイラ・エルロンなど、飛行機の部位を示す用語が使われていたり、飛行機の挙動についての詳細な描写があったりと、とても私の乏しい飛行機知識では書けない文章。でも、飛行機がわからない私のような読み手にも、一人称の登場人物の視点を通してドライでどこまでも広い空の景色をイメージさせるのだからお見事と言うしかありません。
ただ、日記など、思いつきの考えをつらつらとノートに書き写すような場合には資料が要らないので、手ひとつ描くにも慣れるまでは自分の手を見つつ練習する絵よりは優先度が低いと言えそうです。
【絵で通用する上達法】
・構造を理解する
絵が、3次元を2次元に翻訳するもの、という性質上、外見だけでなく内部構造も理解することが、文章と比べてもより重要と言えそうです。
・触ってみる
上記とつながりますが、内部構造を理解するために、外側から見るだけではなく、触ってみようというというアドバイスが散見されました。(人体であれば、書きたい部位を自分で触ってみて、関節が曲がる部分、骨が通っている部分、筋肉の付き方などを理解しましょう、など。)
物を詳細に描写する必要がある文章なら、もちろんこのような勉強も大いに生かせますが、必ずしも中身までパーフェクトに理解していないと、いい文章が書けないか?というとノーだったりする。
・裏から見る
これなんて、もっとも絵らしい上達法ですよね。
文章は、いくら書いたものを後ろから透かしてみたって、文章のよしあしを判断する役になんて立ちゃしませんから。
・模写する
目の前の物体を模写して紙に書き写すことは、絵を描く際の基本中の基本といえるようです。
文章でも写経やいい文章の書き写しが文章力に寄与することが知られていますが、ぶっちゃけ写経しなくてもそれっぽい文章を書く事はできますよね。
【文章で通用する上達法】
・語彙を増やす
絵は無言で済みますが、文章はそうはいきません。
自分の考えをなるべく正確に紙に書き写すために、語彙は必須です。多ければ多いほどいい。
・本を読む
イラストは、イラストを見まくってもあまり上達に寄与しませんが、いい文章を読めば読むほど文章力がアップします。『何十冊も小説読んでから改めて文章を書いてみたら、前よりずっといいものが書けるようになった』なんてのもちらほら聞く話。語彙は増えるし、巧みな言葉の言い回しは、日本語が書ける人なら誰でもパクれます。こうやって、文字表現の幅を広げていくのだ。
・書き切る
イラストでは、ひたすら手だけ、目だけ、上半身だけを描いて練習してもまったくおかしくありませんが、文章修行の場合、ひとつのテーマで文章を”書ききる”ことを重要視する人が結構います。私も、書き切ることは大切だと思います。
書き切るというのは、別に小説一本を最初から最後までという大掛かりなものばかりではなくて、ブログ記事でも、日記でもなんでもいい。とにかく、ひとつのテーマについて考えたことを、途中で切らずに最後までひとつの文章としてまとめる、ということ。
これを実際やってみますと、文章を書いている間に、文章の内容が自分の言いたいこととは違う方向に曲がっていってしまったり、最初に言ったことと最後に言ったことのつじつまが合わなくなったりします。それくらい、考えていることを筋を通して書き切るというのは、基本のような格好をしているのにかくも難しい。
そしてこの難易度は、Twitterよりブログ記事、ブログ記事より小論文、小論文より本・・・というように、ひとつのテーマで書く一連の文章量が多いほど、加速度的に難しくなっていきます。
個人的には、書きかけて、なにがいいたいかわからなくなったような文章でも、そのまま放置よりは書き切ってしまったほうがいい、と思う。まあ私も、もう何本書きかけの記事を途中放棄してぶん投げたかなんて数えられないので、全く人のこと言えないんですけれどもネ。
・音読してみる
文章を書き写すことを推奨する人は多いけれど、音読を推奨する人はあんまりいないなあ、と思って。アライは、特に小説なんかの文章を読む際に、いい文章を見つけて音読しないのは、もったいないと思うくらいです。
音読をすると、まず読めない漢字を放置できなくなります。声に出せないわけですから。そこで読みを調べようとネット検索なり手書き漢字検索なりをつかうことになります。語彙が広がります。
また、声に出す時には気持ちを込めて喋りますから、その文章の情緒を、より真剣に読み取るようになります。この前、家で『走れメロス』をまるっと音読していたら、涙が出そうになりました。メロスがもうちょっとで城に着く!というあたりで、日が暮れてしまう、あのシーンです。走れメロスを朗読しながら泣いてる女子なんて、恥ずかしくて人様にお見せできるもんじゃありませんが、一人暮らしならノープロブレム。
—
というわけで、今回は絵を描くことと文章を書くことを比較することで、文章の効率的な上達法について考えてみました。
アライはもっぱら文章書きなので、絵を描くことについては割と適当言っている部分があるかとは思いますが、なにとぞお目こぼしいただけたらと思います。
あ、もちろん絵描きさん側から、『ここ間違ってる!』とか、『こんなことも絵を描く際に気をつけてるよ』というのがあれば、ぜひ教えてくださいませ。
にしても、ここまで文章をこねくり回して改めて感じるのは、『描く』『書く』という言葉のどちらも、くちにだしたら『かく』になるんだなーということ。いや、小さな、いまさらの気づきなのかもしれないけれど、絵も文章も、表現のアプローチ方法が違うだけで、きっと多くの共通点が下敷きにあって『かく』と呼ばれているのだろうなと。そんなことを、何度も変換ミスしながら思いました。今度は、『かく』っていう言葉から、絵と文章の共通項と、そうでない部分を分類して考えてみたら楽しそう、と思った次第です。
まーた長くなりそうだから、今はここで刀を納めておくけれど。
■上手い下手がはっきりしてしまうイラスト、初心者が書いてもいいこと言える文章
ここからは蛇足なんですが、思いついたので書いておく。
(※以下はあくまで個人的な印象で、誰かを中傷したりなんだりっていう意図はありません。偏見すみませぬ、先に謝っとく)
最近イラストサイトを見て回っていて思うのは、文章書きと比べて、なんか『鬼気迫っている』人が多いな、ということ。
絵が好きでずっと書き続けているんだけれど、上達しなくてストレスフルな人とか胃潰瘍になりそうなひととか手首切りそうな人が目立つ。
もちろん、上記くらいの印象を受けるのは本当に一握りなんだけど、絵の業界全体が、『上には上がいるんだぞ』とか、『自分はなんてダメなんだ』とか、ほかの人と見比べて凹んだり、反対にモチベーションアップしたりと、情緒的な反応が強いように感じる。
それに比べて、文章書く人はもうちょっと余裕があるっていうか暢気っていうか、たとえば文章上達の方法は?って聞かれると、『とにかく書く!』とか、『たくさん本を読む』とか、『辞書を引く』とか、そういう基本固めのノウハウが多い。もちろん、基本が悪いなんていう気はさらさらなくて、むしろたくさん書いてたくさん読むべき。そうしたら誰だって文章うまくなるでしょ、と私も思う。
これが、絵描きさんたちだったら『模写をする際、どんなことに気を使いながら模写すれば、より上達が早くなるか』というところまで突き詰めて考えている。文章書きで言い換えるなら『辞書を引く際、どんなことに気をつけて辞書を引けばより早く文章が上達するか』と言っているようなもんですな。
結論から言えば、「そんな細かいことまで考えずに、とにかく知らない言葉に出会ったら辞書を引くくせをつけておけば、何千回と引くうちに語彙が増えるよ」と私なら言いそう。こうやって『こまけぇことはいいんだよ!大切なのは基本だ!』で片付けられる事自体、一種余裕がある証のような気がする。
この違いは何だろう。鬼気迫る絵描きさんと、のほほんとして基本ばっかり大切にする文章書きのあいだには、どんな差があるんだろうと考えた。
それで、ひとつ思いついたのは、『習熟度の違いが一目見て判然としているかどうか』の違いじゃないかということ。
文章というのは、先ほど述べたように、一瞬で伝えられる情報量に限度があるし、正確性も欠きやすい。しかし、反対に言えば、一瞬文章を見ただけでその文章全体の質がわかるというものでもないし、読者の想像力である程度補完してもらえる、という、多少のいい加減さがまかり通る表現でもある。
だが、イラストはそうはいかない。8頭身でもデフォルメキャラでも、紙の上で見て適切だと感じるバランスがあって、それを崩すと『下手』なイラストになってしまう。『下手』なイラストは比較的判然としている。しかも一目でわかる。だから絵描きさんは、イラストを描いた紙をひっくり返して光に透かすのだ。
文章にだって、もちろん上手い下手がある。下手な例としては、文章を通しで読んでみたら、言いたいことに一貫性が保てていない、てにをはが適切でない、語彙が乏しい、人称が抜けていて誰が言った言葉なのかわからない、など、など、など。挙げだしたらきりがない。
そう、きりがないのだ。イラストと文章で上手い下手を見分ける際、もうひとつ違う点は、イラストは欠点を指摘しやすいが、文章は欠点の条件がが明白でなく、また一概に欠点と言い切れない事柄が多いこと。
たとえば、私の文章はですます、である、体言止めなどがごっちゃ混ぜの調子で書いてゆくけれど、これがたとえば公開特許公報だったらたまらない。特許庁へのクレームが止まらないだろう。公式に出す文書にはそれなりの作法があるからだ。
けれど、これが私のブログで展開されている文章である以上、公開特許公報では欠点とされるものが一概にダメだ、とはならない。お堅い文法なんか守らないぜ、これがうちのブログの『味』だ、と言い切ればそうなってしまう、かもしれない。少なくとも、一概に『お前の文章の行末は常々間違っている』と、100人中100人に指摘されることはない、と思う。うん、多分。
イラストの場合は、紙を裏返しにして透かしてみる、という作業で、基本が出来ているのかを目視できるから、描き手の習熟度も透けやすい。絵を描いていない人にさえ、裏返したらアラが見えてしまうのだ。このあたりのシビアさは、文章とは比較にならないなと感じる。
文章が、ぱっと見の文章を何かフレームワークに当てはめて文章の良し悪しを判定するとすれば、『同じ言葉をなるべく重ねて使わない』とか、てにをはの間違いを治す、とか、行頭の一文字下げや鍵括弧の使い方、引用の作法など、形式ばった部分に触れるのがせいぜいじゃなかろうか。文章の表現内容について批評するとすれば、まず文章全体に目を通させてもらって、それから口を開くことになると思う。
さらには、文章を書く、という場合には、『初心者だから文章が下手』とは、一概に言えない。小学生の読書感想文が、大人の企画書にさえ時々面白さで勝つだろう。時には文章表現でも勝ったって不思議じゃない。文章の場合、『文体が変だから下手なのか』『表現技法が乏しいから下手なのか』と言われて、即100%そうだ、と言えない。
もちろん、絵の場合でも、裏から透かしてバランスがおかしいから即下手、と100人中100人が感じることはないと思うけれど、絵描き講座などで、裏から透かしてバランス確認、はよく出てくる判定手法なので、絵を描く際の、習熟度の重要な判定基準のひとつになっているようだ。文章の『上手さ』を判定する諸々の基準よりは、より大きなコンセンサスを得ているように思われる。
このように、絵と文章を比較したとき、絵のほうがより習熟度がわかりやすい(そして絵をやっていない初心者の人にまで、一目で習熟度が伝わってしまう)ために、他人と比較することが容易で、そのぶんあせったり、モチベーションがガンガン上がったりするんじゃないかな、と考えた次第。
—
ちなみに、文章書きだからって、他人と筆力を見比べたりしないのか?というという問いには、アライの場合、全力でノーです。
こと、身近な人の文章力がケタ違いだったときの衝撃は、中々胸を突き上げるものがございますよ・・・。ぐふぅ。
ただ、絵も文章もそうでしょうが、かき手の個性ってものがありますから、「追いつけ追い越せ踏みつけろ!」と考えるよりは、「俺は俺の道を行くぜ!ただしその名表現、盗ませていただこう!」っていう、そんなノリです。