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【コミュニケーション】相手側へ想像力を働かせることが思いやりじゃないだろうか

Written on:5月 17, 2014
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 最近たてつづけに人間関係の悩みやら愚痴やらを聞くのでどうした私の周り。と心配になっている。

 私も正直、継続的な人間関係というのはそれほど得意じゃない。初見プロ(=初めて会った人と仲良くなれる)は得意なんだけれど、一度構築した関係を良好に維持する不断の努力、というものがあまりできない。ちなみに知り合いに居ます、不断の努力すごい人。マジ尊敬してるお姉さま。

 まあ、それはそれとして、私も人のことをどうこう言えるコミュニケーションプロじゃないということだ。
 ただ、周囲の話を聞くに、何やら盲目気味、ではないのかと感じざるを得ない時がある。ちなみに、その子たちがこのブログに目を通すことがあるだろうけれど、頭のいい子だから、わかってくれるだろうと思っている。たとえ呑み込めなくとも私がただ単にその子たちを批判したいのではなくて、心配しているし、元気を出してほしいし、出来ることなら良い方向に向かってほしい、と思っていると分かってくれる。これも逆に私の盲目さの表れで、実に押しつけがましい話なのだけれど、そうとでも仮定しなければこんなことは書けぬ。

 んで、具体的にどういうことかというと『相手が自分の気持ちを分かってくれない』という話である。『自分はずいぶん我慢しているのに、相手が自分を慮ってくれない』というたぐいの話だ。1:1の人間関係の話だ。

 実にありがちな、というと風情がないし、当人たちの切迫感をも馬鹿にしている気がするし、そもそも私は統計的に実にありがちな話なのか知らない。

 ただひとつわかることは、そりゃそうだよね、だ。相手が自分のことを慮ってくれると期待すること自体が間違いだ。私も相手もテレパシーなんぞ持ってはいない。

 言葉の受け取り方は人それぞれだ。自分が伝えたいことのどれ程が、言葉に乗せて伝わるというんだろう?

『昨日、ディズニーランドに行った』という言葉を、どれ程補強したところで(たとえば、『彼女と』『朝5時から車を走らせて』『開園1時間前から並んで』と言葉を連ねたところで)伝聞だけで、実際に行った当人と同じ風景を眼裏に浮かべることができるはずがない。

 にもかかわらず、言葉の裏まで予測して自分に気持ちのいい言葉だけを投げかけてください、というのはずいぶんな無理ゲー強いてる感じゃなかろうか。少なくとも私にはとてもとても厳しい。

 人はいくら言葉を重ねたところで究極的には分かり合えない、というのがまず前提としてひとつ。

 ならば、そこで人間関係をあきらめればいいのか、という問いが飛んでくる。それも一つの手ではある、私は早々に白旗を振って逃げ出すことが多々あって、何が何でも人間関係にかじりついて離れない根性、というものを尊敬するし、ある種の憧憬すら持っている。自分には薄いものだから。

 だからこそ、かじりつける人はかじりついて欲しい、と思う。諦める前に、まず自分が変わってみるのだ。

 『自分と相手は実は異星人で、日常をまったく違うフィルターで眺めているんだ』と意識してみる。

 私たちは、青、という色を、誰もが自分と同じ風に見ていると思っている。そんなはずがないね、色盲の人なんか普通にそこらじゅうにごろごろいらっしゃる。

 でも、普段話すときそんな前提まで意識しているだろうか。

 あの人は私と同じで、異性が好きなはず。

 あの人は私と同じで、結婚記念日を忘れないはず。

 私と同じ、私と同じ。そういう決めつけ意識が強くあると、たぶん互いに息苦しい。

 相手に甘えることは、相手との同一性を勝手に定義し盲信することではないはずだ。自分の認識を一般化してさも当然だというように述べる傲慢のなかにないはずだ。むしろそれとは真逆にある、相手と自分は別の人で、まったく違うフィルターを通して世界を見ていて、分かり合えないのが当たり前、と確信する。

 そうすることで、相手が今何を考えているのだろう、もしかしたら自分の伝えたいことが正しく伝わっていないんじゃないか、という想像力につながる。

 相手と自分の差異を認識することは、もしかしたら切ないことなのかもしれない、人間関係は、何かしら互いに近しい要素が影響しあって結びつくのかしら、と私も思うことがあるから。正直、そこらへんはよくわからんのだけど。

 でも、相手を思いやる想像力はきっと優しい。
 優しさをお互いに持てば、きっともっといい関係になれる。

 ここまで読んで、どんなふうに考えて頂いただろう。
 たとえば、自分が相手を思いやっても、相手が思いやり返してくれないのでは甲斐がない、という気持ちになっただろうか。それもひとつの感じ方だ。

 ただ、そういう言葉が出てくる時点で、相手への信頼感をわずかにでも欠いているのではないかしら、と私は疑う。

 相手への信頼感を欠くと、それがまた相手にも伝わってしまう。互いに不信感が募る。不毛な言い争いに発展する。身から出た錆が互いに回って互いをダメにしている状態だ。

 こういう時には2択だ。ギブアンドテイク思考をやめるか、徹底的に話をするか。

 ギブアンドテイク思考をやめる、というのは『自分ばっかり我慢して(相手は何もしてくれない=相手にも何かしてほしい)』という不毛な言い争いを自分から打ち切り、ぐっと言いたいことを我慢する態度だ。胸の内にいろいろ溜まっているとは思う、それをわざと一度呑み込んで、不毛なループから脱出するのだ。損して得取れ、相手との争いに付き合っても疲れるだけだし、結局自分が降下していく相手のレベルに付き合う羽目になる。

 話をする、という場合にも、なるべく感情論を避けたい。それと同時に、先の『相手と自分は全く違うフィルターで世界を見ている』という前提に立って、頻繁に質問と確認をを繰り返しながら、なるべく相手が思い浮かべている内容とおなじ風に考えられるように努力する。

 ああ、書いていて思った。この二つは併用がいいのだろうな。

 どのみち自分が理性的になって相手に歩み寄る、という態度は変わらないのだけれど、そうでもしなければ不毛な緊張状態は終わらない。まずは自分から相手への思いやりを示すこと。相手との人間関係をどう変化させるか、あるいは解消するのか、についてはそれから考えても遅くない。

===

ちなみに、ベラベラ書いておいてなんなんだけど、これ完全NLPの受け売りなのよね。

ちょうど手元に『手にとるようにNLPがわかる本』があって、それが最近の話といろいろかみ合うところがあったので、考えをまとめる意味で活用させていただきました。

とりあえず、まあ、なんだ。

みんなハッピーになーれ!

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